どうでも良いことを考えてしまう。

なんてことはない、日常で思ったことのつぶやき。

カタカナ語

まぁコレもやたらと使う人は嫌いだ。
日本語にそういう意味の言葉がない場合。その言葉を文章で表さなければならなくなるので、全体がぼやけてわかりにくくなる場合はしかたがない。

私は「なるべくカタカナ語を使わないでやろう」と、一時期思っていた。

するとその言葉の意味を日本語に置き換えようとすると、正確な意味を知らないことに気がつく。

英語なので前後の文章で単語の意味が変わってしまう。
だから単語辞書で調べると、かなり幅広い意味を持つ言葉であることが多い。

― 話は変わって。

加島祥造氏の著書『タオ―老子

この本の持つ独特な世界観が好きで、今でも時々引っ張りだしてきては読み返している。

この本では”カタカナ語”が敢えて使われているところがある。
そういうところでは、実にカタカナ語の持つ幅広い訳が効いているように思う。

例えばLifeという言葉の訳を見てみる。

>生命、人命、(個人の)命、(生命をもった)人、生き物、生物、(ある時期または死ぬまでの)生涯、一生、寿命、(機械・政府などの)寿命
weblioより引用)

『生命』とだけ書いてしまうと、とても限定的な意味合いになってしまう。
日本語は曖昧なニュアンスの言語だと思っていたが、それぞれの事柄や事象を表す言葉は山のように多い。

それの良し悪しは横へ置いておくとして、この『タオ―老子』の中ではカタカナ語が、広大な世界観をよく表しているように感じる。

気取ったヤツが、嫌味っぽく知識をひけらかしているのとは違う。
カタカナ語の良い用例を見た気分である。

― 結局のところ。

カタカナ語が嫌いだと決めつけている自分も意固地になっているだけで、世界の見え方を限定してしまっている。

考え方が居着いてしまってはダメだ。
頭に昇った氣を鎮め、肚へと収めて広く世界を見ないといけない。