じっくりと練るように
『練』という文字がある。
「鍛錬」「修練」「訓練」「熟練」など、練を含む言葉には、何かを突き詰めていくような行為を表したものが多いように思う。
練の語源を調べてみると。
「調べる」、「工夫する」
「まぜ合わせて固める」、「熱を加えて、むらのないように固める」、「まぜあわせて、粘りけが出るようにする」
「慣れる」、「習熟する」
などの意味があるようだ。
単純な力による解決ではなく、気が遠くなるような長い時間をかけ、緻密な編み物でもしている行為のよう。
単調な動きを繰り返しているようでいて、決して同じ場所に留まっているわけではない。まるで無限に続く螺旋階段を登っているような変化。
気がつけば見える景色は変わっていて、そこで自分の習熟に気づく。
単純にパワーアップするだけのトレーニングとは違っていて、體(カラダ)にムラが出ないように行う緻密な行為。
― 過去に剣道を習っていたが、『型』と呼ばれる稽古が好きではなかった。
地味で単調な動きを繰り返しているだけで、何のためにやっているのか理解できないでいた。
若い時には結果を直ぐに求めてしまう。
だから結果の出やすい筋力トレーニングなどは好んでやっていたが、ソレに中身などはなく、物事の上面でしかなかった。
「小手先」という言葉があるが、正にそのような行為だったと思う。
「書は全身を使って書く」と言われるように、小手先だけで書かれた作品からは、湧き出すようなエナジーは感じられない。
何千、何万と「書く」行為を繰り返し練り上げ、習熟の先に表現された作品にこそ、我々は美しさや感動を覚えるのではないだろうか。
『練』という文字と行為について思うことである。
― 余談
ビジネスモデルなのかもしれないが、テレビなどでは”インスタント”なものが持て囃されているようだ。近年その傾向を強く感じる。
練り上げられたモノを提供できなくなったのか、あるいは提供するだけの能力を失ってしまったのかはわからないが、人がそこから離れてしまっている現実を見れば、そこには人が求めているモノは無いということだろう。