どうでも良いことを考えてしまう。

なんてことはない、日常で思ったことのつぶやき。

感じていること

昨日の朝のこと。

洗面台で顔を洗っていて、ふと感じた。
「あれ?雨が近づいているんじゃないか」

何気なく母親にも話してみると、天気予報ではそんなことは言っていなかったと言う。

ネットの予報を見てもそんな予報は出ておらず、どうやら自分の勘違いのようだ。

― ところが。

夜になって母親がこう言った。
「畑に出ていたら、ほんのちょっとだけ雨が降った。1分も降らなかったけど」

朝に感じていた雨だったのかは確認のしようがない。
偶々だったのかもしれないが、體はこの雨を感じ取っていたのかもしれないと思った。

(ここでは体ではなく、あえて旧字体の體という文字を使いたい)

そのセンサーは高性能であるが、主張をしない。
だから頭で強く思うこと。今回の場合は『降水確率0%』ということを強く頭で考えていたなら、きっと體が感じていた雨の雰囲気に気づくことはなかっただろう。

歳を重ねると”そういうこと”が増える。
全ての人がそうではないかもしれないが。

花鳥風月という言葉も、歳を重ねる毎に感じ入るモノを順番に表している。
なんてことを誰かが言っていた。

女性はそうでもないだろうが、若い男が花を見て感じ入っている姿など見た覚えがない。せいぜい花見にかこつけて宴会する程度だ。

そういう私もそんな者の一人であり、若い頃は花なんて見ても感じ入ることなんてなかった。

血気盛んで生命エネルギーに溢れている状態では、微妙なセンサーの反応に気が付かないのは仕方がない。

ひょっとしたら、そういう上気したエネルギーをコントロールすること。
ヨガや瞑想が世界的に流行して、今では一般的なこととして定着したのも、そういう微妙な何かを人が感じ始めたからだろうか。

氣は頭に昇って考えるよりも、肚にあって感じるほうがいい。